「12時05分。銀座『みゆき亭』カウンター席」
毎日同じ時刻に現れるスーツ姿の男は、必ず冷やっこの盛り合わせと鯖の塩焼きを注文する。箸の動きに無駄がなく、味噌汁を啜る音すら計算されているようだ。殺し屋・野原ひろしが仕事前に必ず通う店には、奇妙なならわしがある。
■殺し屋の栄養管理学
「ターゲットの心拍数は自分の呼吸で測る。その精度を保つには血糖値のコントロールが不可欠です」
野原が提唱する「暗殺者のための食事五箇条」は業界で密かに広まっている。①糖質は玄米で摂取 ②タンパク質は魚介類中心 ③食後30分の仮眠 ④カフェイン摂取は作業90分前 ⑤咀嚼回数は最低50回──。彼の成功率98.7%を支えるのは、こうした日常の積み重ねだ。
■忘れられない「あの日の弁当」
10年前の初仕事の日、恋人(現在の妻)が作った手弁当を現場で食べた際、わずかな酢飯の匂いがターゲットに気付かれる危険があった。以来「仕事前は必ず専門店で食事」と決めた。今でもあの弁当箱はオフィスの金庫に保管されている。
■美食が招いたピンチ
先月、新橋の老舗割烹で絶品の雲子丼を食べた帰り道、舌鼓を打つ余韻が災いして背後からの接近に気付くのが0.3秒遅れた。「命と引き換えにできる味などない」と苦笑いしながらも、翌週また同じ店を訪れるのが彼の流儀である。
銀座の路地裏で黄昏れを背に啜る一杯の出汁。その中に、殺し屋の人生が凝縮されている。次に彼が箸を置く瞬間、またどこかで歴史が動くのだろう。